イビザにはヒッピーマーケットがいくつかある。
イビザのヒッピーマーケットはザッとあげるだけでも8件。
日本の淡路島ほどしかない小さな島に何故こんなにもヒッピーマーケットが乱立しているのか?
歴史の中から探ってみるのはいかがだろう?
現代のような観光客が初めてやってきたのは1950年代。
見事な海辺の入り江、澄んだ純粋な汚染されていない水、絵のような海岸線の島。
その美しさは人々を魅了し、観光業が島の繁栄に一役を買った。
イビサは1936年から1975年までスペインを統治したファシスト政府の政治的弾圧からの避難所であり、60年代にヒッピー運動がアメリカのサンフランシスコから世界中に広まるにつれて、膨大な数の人々がイビサに移住し、安い家賃と田舎のライフスタイルに定着した。
1964年にローリングストーンがイビザのSant Antnioで2,3日の休暇を取ったことがあった。
そこには交通手段がなかったが、若者たちが辟易としていた戦争もなかった。混沌とした世界の中にいる彼らにとってイビザは安心できる自然の楽園だった。
その当時のお決まりのヒッピールックス
男性=フレアパンツ
女性=鍵あみのビキニ、スカーフに雀斑。
1968年、多くの若者たちやヒッピーたちが夢見た平和はプラハの春に始まり、ベトナム戦争が終わるまでの間、破壊され続けた。
ベトナム戦争のは1975年4月30日まで続いた。
こう言った時代の流れの中で、イビザはヨーロッパの避難所となった。
1969年にピンクフロイドが音楽を担当した映画「More」はイビザの自由と愛ユートピアをドラッグと一緒に描いている。
この映画によってイビザの評判はゆるぎない物に変わった。
70sの後半のディスコシーンはアメリカのニューヨークのアフリカ系のゲイクラブ「Paradise Garage」から始まり世界中に広がりその影響はイビザにも。
その活動の拠点として、始まったのがAmnesiaで音楽に忠実なファンを形成した。
後にKu(現在のPrivilege)、Pacha、Glory、Lola’sを生んだ。
夏の数ヶ月だけオープンする歴史的かつ、観光客むけのクラブが次々とオープンし、クラブ文化が形になり始めた。
アシッドハウスが流行る前、80年代の始まって数年の1983年に家族旅行に訪れいていたDerek Ridgersが撮った写真によってイビザはさらなる変化を遂げる。
Derek Ridgers:「夜になると港の周りバーがロンドンのカムデンパレスだとかThe BatcaveだとかThe wagなんかのヘビーバージョンに変貌したんだ。
その頃からイビザにはダンスカルチャーが本格的に根付いて、バレアレスビートって呼ばれる独特の黒すぎない音楽が流れるようになった。
80年代こうはんのユースカルチャーストーリーとなっていったんだ。
そこには飲んで騒ぐやつらもいたし、ドラッグも当然あった。全身白い服のやつもいればターバンを巻くやつ、豹柄のキャットスーツを着た男もいた。
ペグのズボン、紐でできたベストをきているやつもいたし、とにかくニューロマンティックルックって言うのかな。
性的に無差別なビーチ観光地だったのがクラブに変身していた。」
バレリアックビート
80sにクラブはそれまでは搭載していなかった防音対策を採用し、強力なサウンドシステムを取り入れた。
ディスコミュージックはその当時流行のMadonnaやDavid Bowieとその他の様々な音楽とともに進化した。
バレリアックサウンドはニューヨークで生まれるポップ、ファンクやHip Hopとソウルなどの音楽を自由なスタイルでミキシングされていき、そのラインはどんどんとぼやけていった。
バレリアックサウンドの中でも有名な曲として、FPI Project – Rich In Paradiseがあるが、これは元々AmnesiaでレジデントDJをしていたアルフレドがカバーしたものだった。
1980年代の終わり、1989年にベルリンの壁が崩壊。
ハウスミュージックが本格的に国際化し、国境を超えて全世界で流れるようになった。
2年後の1991年の6月22日の夜、Amnesiaはリニューアルオープンし、何千人もの若者が集まる巨大クラブとなった。
この出来事はクラブにとって最も有利な時期の始まりを示し、入場料とドリンク代の価格が明らかに上がった。
そして、イビザのクラブは世界的に有名となり、ファッションについても独特でありつつ商業的なものへと変わっていった。
こうした流れを経て、1999年、国連はイビザ島を
「人類の文化遺産と自然遺産の両方として、世界遺産に登録した。」
島の居住者は10万人をこし、今なおヨーロッパの人々、セレブたちを美しい自然、ファッション、音楽で魅了し続けるパーティーアイランドとなった。