高山病で少し体調が悪かった私は、まだ空いている共有スペースで横になっていたが、H氏が起こしに来たので外に出てみる。
もう何も見えない、と思っていた景色の雲の合間から川が凍ったと見られる世界の果てのような景色が覗いた。
冷たい空気が私たちを包む中、速度のはやい雲の動きが幻想的な雰囲気を盛り上げる。
深い谷の底には硬そうな氷が波面を残したまま凍っていた。
「この日はせっかく登頂したのだから宴だね。」そう行って始まった2人だけの宴会。
小さな小瓶に入れられたラムを買ってそれをミルクティーに入れて飲む。
ラムとミルクティーは本当に相性が良くて、甘い香りに酒が進む。
曇に覆われて何も見えなくなった窓からは真っ白い不透明な世界が広がった。(早くから飲むにはちょうどいい理由!)
本当に、朝の数時間が今日のラッキータイムだったと実感する。
酒を飲んで、ご飯を食べて、それからまた酒を飲んだ。
どうしようもない話をずっと続けて、ご飯を食べてまた飲み、寝ることにした。
が、この日も本当に寒くて寒くて仕方なくて、寝付くまでに時間がかかり、トイレに行きたくなってまた寝付くのに時間がかかる。
夜は眠れてもかなり浅い眠りだった。
後に知ったがこれは人間の防衛本能なんだとか。
極度に寒い場所で眠すぎると体温が落ちすぎて病気や死亡の確率が上がってしまうから本能的に深く眠れないようにできているらしい。
早朝に目を覚まして、朝日をみよう!と思っていたが、5時半に起きて見たものの結局曇っていて見れず。
不貞寝して寝過ごし7時半ごろになってやっと目を覚ます。(もうほとんどの宿泊者が出発していた)
トイレに行く時に少し部屋のドアを開いたままにしておいたら、犬が入って来た。
この犬たちがまた、可愛かった。
部屋の前で寒い中寝てたようなのだが部屋が空いてるのに気づくとそーっと入ってきてそのまま静か~に居座っていたのだという。
人間に寄り添おうとする姿が本当に可愛い。
いつの間にか犬に話しかけるようになっていた。
その日は早朝に出て、行けるところまで行き、次の日そこからガンドルックまで到着する!という日程を組んでいた。
行きは5泊かけたのに帰りは2泊という強行にも思えるプラン。
トレッキングでの「登り」は高山病の可能性もあるし、体にも答えるし大変だけど、「下り」は足への負担(下りは危険が多い)以外はかなりスムーズに進む。ハズ!
私たちは昼休憩以外はほぼ休憩を取らずに駆け下りた。
登りの時は水休憩、補給休憩と称して10分程度止まってかなり回復した。と感じてからまた歩き出していたが、とにかく早く降りてしまいたい私たちはそんな時間さえ取らなかった。
お金に余裕があればゆっくりやっていたのかもしれないが、そうも言ってられない。
とにかくさっさと降りた。
下りの一泊目、Bamboo(バンブー)に泊まっていた私たちはその後Chomoron(チョモロン)にあるオフィス(小さな事務所)で山のチェックアウトを済ませる。
ここの階段、本当に糞くさいし、急だし、階段多すぎるし嫌だったけどもう終わりか~。
大きな村、チョモロンで昼食を済ませようとランチにレストランに立ち寄った。
私たちの前で美味しそうに、何かねっとりしたものを食べている女のこがいたので、「チョコレートあげるからそれトライさせてよ。」
「いいわよ?別に。」とトレードしてくれた。
これが意外と美味しくて、あとでカトマンドゥでも買ったのだが、プラムを砂糖とスパイスにつけたものだという。
なんともネパールらしいものだった。
辛くて甘い。ネチョネチョしたお菓子。こんなの絶対西欧にはないけど、日本にもあるよね。杏。
ランチが終わると、また急いで山を降って行く。
聞くと、山を下り、川を越える。谷の間には小さな村があり、そこがキムロン(Kimrong)だ。
現在14時。
日没までに間に合うだろうか。
不安になる気持ちを無視して、いつも以上に足を忙しく動かす。
行く先々にガンドルックの看板はあったが全く見えやしない。
橋を渡りさらに山を800m以上登ったところにコモロン(komrong)という小さな村があり、さらにその先にガンドルックがあるという。
かなり大変な道のりだったが、山を登り切っると奥の方に霞んだガンドルックの村が見えてきた!
と、そこに雨が・・・。
寒い。冷たい雨だった。
景色はいいものの、見るからにガンドルックはまだ遠いのがわかる。
急ぎ足で駆け抜けながらも時折ロバや水牛たちが通るのを眺める。
ヒマラヤトレッキングのほとんどはこんな感じだった。
ヤギやら、ヤクやらが通り過ぎて。犬も通り過ぎて。
温かくて、のんびりした雰囲気・・・。とはいえ、多分ここに住んでる人たちにとっては超普通の日常で、何が面白いんですかね?的な感じかもしれないけどね。
大急ぎで駆け抜けて行ったコモロンにも、貧しそうな家はいくらでもあって、金になってなさそうなロッジはわんさとあった。
この人たちのために何かできることはないのかな。。とこの時一瞬考えたんだけど、トレッキングで歩いてる時って意外と集中力を使うから、その瞬間は過ぎ去ってしまった。
2時間半歩き続けた。
やっとガンドルックの村、ここはグルン族の住む大きな村。
私たちは見晴らしの良さそうなロッジを見つけると、そこを見学。
なんか今までよりも全然いい作りだよ?大丈夫?と心配になった。
今までは自分たち専用のお風呂もなかったし、ベッドもシングルよりもちょっと狭いんじゃないかと思われるほどの細いベッドだったのに。
なんと今日はトイレ・シャワーに洗面所付き!それにベッドはダブルベッド+シングル一つ!余るじゃん!
「本当に大丈夫なの?足りる?明日はバスに乗って帰らないといけないんだよ?足りる?ご飯も食べなきゃいけないんだよ?」
「大丈夫だから!ちゃんと少なめに使って来たでしょ?」
嬉しそうに彼は節約の成果だと主張し、
「最後の日くらいちょっといいとこ泊まったっていいでしょ。」と笑っていた。
それなら、と結局ここに宿泊することに。
シャワーをすぐに浴びたい気もしたけれど、暗くならないうちに、ちょっと周りを歩いてみよう!と一周。
子供達が駆け回り、村の人同士で井戸端会議をし、料理をしている音が聞こえ、子守をする姉妹の姿があった。
私の知らない「村」という生活があった。
ここにいる人のほとんどが知り合いで家族のように見えた。
年上のお兄ちゃんがゲームの仕方を教え、悪ガキっぽい少年たちがどうやったら勝てるかと地面を睨みながら話し合っていたり。
ちょっと小道に入ると、ボロボロの家があって、その隣にはまた新たに作っている家があったり。
本当に小さな小さな村の営みだった。
夜、私たちは外の見えるテラス席で、村の様子を眺めた。
まだ村の人たちも眠っていないようだ。かまどの火が揺れているのが見える。煙が立ち上っている。
ああ、素敵な景色だな。ちょっとLEDの明かりが嫌だけど。文明のせいなのかな、少し煌々と明るすぎるけど、それでもこうしてライトアップしてくれてるんだもん。
すごいよね、ありがたいよね。
村の人も夜が怖くなくなったとか、あるのかな。
言葉がわからないながらも交流しようとしてくれる村の人たちの温かさにポッと心が緩んだ。
その夜は本当にずっしりと重い石が泥に溶けていくようにして、眠った。
本当に、心地の良い眠りだった。(久しぶりに寝袋なしで眠れた!)。
朝になると、私たちはもう一度村を一周。
村の売店で売っていたヤクのチーズを買った。
一つ食べて見た。
C「!??」
H「え?何?」
C「咬めない!」
H「え?どれどれ?」
私が毒味した後に口に入れるH氏。
嬉々としながら口へ運び、もぐもぐ。
チーズはこれでもかと乾燥させていたようで、かなり固くなっていた。
こんなの食べれないよ。。と村の人に配ることに。
みんな嬉しそうに「ありがと!」「ありがと!」と言いながら口へぽんと入れる。
これが普通らしくもぐもぐとじっと噛んでいた。
実際、食べて見ると本当に味は薄くて、ほとんどない。風味程度、と言えば伝わるだろうか。
チーズとしてどうかと言われれば間違いなく美味しくない。自分の唾液が出てくるのを味わっているような感覚だった。
どうしても美味しさを感じられなかったし、これを20個(一袋)も食べることは難しいな~ということで、村のみんなに会うたびに配る。
素朴な子供たちは「お!ありがとう!」と嬉しそうに、口に入れていた。
おじいさんもおばあさんも「あら?いいの?」と軽く口に入れてもぐもぐ。
変な食べ物だった。
そして、私たちはポカラへ向かうバスを拾うために村を出発した。
このシーンは忘れられない。
写真を撮ることはできなかったが、私たちが2人縦列で歩いていると、前から2人ぐみの女の子がやって来て一言大声で叫んだ。
少女「Chocolate please!!」
そして大股を開いて、通せんぼする。
もう1人が後ろに周りこちらも通せんぼする。
私たちは、すべて食べ終えてしまったので、
HC「持ってないよ。」と言うと
少女「そんなわけない!そのリュックに入ってるのはわかってる!!」
と、名探偵さながらの真剣な目で私たちにちょうだいの手を差し伸べる。
困った顔で眺めていると、さっき挨拶をしたおばあちゃんが来て
おばあさん「この悪ガキども!さっさと通してやりなさい!おどきなさい!」
と通してくれた。
子供たちは不服そうな顔をしながらも、去っていったが、H氏のお尻にかなり強いパンチを3,4発食らわしたらしい。
たくましい子供たちだ。美味しいチョコレートを山登りのエネルギー補給用に持っているのをこの子たちは知ってるんだな~。
そして、チョコレートはもちろん高級品。日本も戦後、キャラメルやチョコレートを米軍に投げてもらってたって言うもんね。
いつかこの山登りの恩返しがこの国にできるといいのだけど。一つの目標に加えておこう。
こうして私たちの長い長い7泊8日のトレッキングの旅は終わった。
バスは超満員で、座る席に余りはなく、空いてるスペースにぎゅうぎゅうになるほどに人が乗っていた。
そこで目にしたのが、私よりも若い20代前半と思われる白人の女の子。
ラジオから流れる音楽に合わせながら、体を揺らしているその子は、ガタガタと激しく揺れるバスの中でずっと、立っていた。
座ることができるスペースができても「私はいいの、大丈夫。あなたが先に座って。」と言う。
スリランカでもあったんだよね、こういうシーン。
忘れないように書いておこう。
日本ではあまり電車やバスに乗らず、自転車を使っていたから、私にはあまり人に席を譲るようなシーンがなかった。
だけど、こういう行動を見ていて、本当にサッと腰を動かせる軽やかで心優しい人でありたいね。と再認識した。
今、座れなくても自分の足は折れたりしないから、自分よりも辛い人に譲ってあげられる心の余裕と強さを忘れないように。
彼女のおかげで私はすごく温かい時間を過ごせた。
ポカラに着くまではおそらく6時間くらいかかっただろうか。
暑くてひどいバスだったけれど、帰ってシャワーを浴びると私たちは水牛のMomoを食べに夕食に出た。
ただ、ただ、食べ物が目の前にある幸せ、頼めば出てくる幸せ。
あ〜うれしいな、空気がたくさん吸えるって楽だな!
今日無事に戻ってこれた幸せ、あの景色が見れた幸せ。
乾杯!
後に知ったことなのだけど、数日間のトレッキングであれほどの景色が継続して見れる場所はネパールくらいしか無いそう。
だからネパールに毎年のようにきてトレッキングに挑む人たちがいるのかと納得。
私もこのトレッキングをして見て、初めて「人はこういうものを見るために生まれてきたんだ!」と思ったほど。
それから、1日をポカラで過ごし、カトマンドゥに8時間かけて戻りパタンという古都へ向かった。
2015年に大地震を経験したネパールだが、その傷跡が今だに癒えていない場所の一つ。
この場所は地震が起きた際、たくさんの歴史的建造物が破壊され、崩れ落ちた。
脆いレンガで作られた建物は易々と崩れ去り、形を消していったのが当時の動画でも確認できる。
そんなネパールの町の中でもパタンは比較的被害の少ない方!と言われていた。
が、3年経った今日でもその傷跡は目に見えて残っている。
というか、修復作業が遅くて間に合っていない。
道を歩くとつっかえ棒が建物と建物の間や、建物と地面との間に設置してあったり、今にも倒れてきそうな住居や使えなくなってしまったボロ住居もたくさんある。
こんな中でよく暮らしてるな~と思うけれども、それしか方法が無いのでしょう。
今回のホテルは1500円程度の宿だったが、新しくオーナーもとてもフレンドリーで面倒見がいい。
不具合や困ったことが無いか常に気を配っていてくれていた。
そんなホテルでも電気が止まることもしばしばあったし、水が無くなることもあると教えてくれた。
だが、停電が起きればソーラーパネルの電気で補完していたし、水も国からの供給が間に合わないときはタンクの水を使うなどして、上手に補完していた。
お金があるから、なんとかそうやって代替の方法を手にすることができるんだな。と見ていて感じる。
ある日の朝、井戸の水を汲んでいる女性がいた。
おそらくその水は決して綺麗では無い。だって1m土を掘っただけでプラスチックゴミがわんさと出てくるんだもの。この国は。
だけど、それを使うしか無いのだろう。
彼女はニコニコと挨拶して何かネパール語で話してくれた。
わからないけど、多分大変なのよ。とかそんなことじゃ無いかな。手伝おうか?といったけど、大丈夫!と返され、私たちはその場を去った。
パタンの町はパワフルで古典的でアートな町だった。
脇目も振らず生きてるな、とそんな印象。
夜に目に入った小料理屋に入った。
「オススメの全部ちょうだい!」
お皿にドカドカとたくさんのものを入れてくれた。
チウラという干し米から、千と千尋の・・・のご馳走に出てきそうなもち米の練り物。
そんなのが出てきて、1000円しなかった。
全部食べきって、「ごちそうさま~!」と出て行くときに
「どうだった・・・?」と奥様が一言。
「すべてがスパイシーだったけど日本の料理に似ててとっても美味しかったよ!」というと
にっこ~りして、「またきてね」と送り出してくれた。
ネパール料理、ダルバートだけじゃ無いんだな。と初めて知った。
実は、4月には日本へ帰る予定があった。それも私だけ。
とりあえずはタメルに戻った。