遂にThe Travel Story も20話になりました。
日本を出てすぐに詐欺師に騙され、思ってた以上に出費してしまったタイでの2週間。
その後はバスでカンボジアに入って、シェムリアップを見た後、ほとんどキャンプのような感じのホテルで過ごしたラタナキリ。
そのままバスで北へ北へと進みラオスへ。2時間以上トラブルに巻きまれたラオス国境。
南部4000の島の一部 Don detとDon Koh、名前のない滝をみたりメコン川に癒された。
さらにバスを使って今度はベトナムシーサイドへ。
暑さにやられ涼しさを求めてフランス植民地時代の避暑地ダラットへ。
私(C)の誕生日の日には山へ登り、海鮮を食し、ワインを飲み、とこう書くと贅沢な誕生日。
素敵な日々をダラットで過ごさせてもらった。
オスカルホテルも広くて清潔で最高だったな~。南国だけでは無いベトナムの魅力を感じることが出来る素敵な場所です。
さて、ダラットに長めに滞在していた私たちはベトナムの最終目的地、サイゴン(ホーチミン)へと移動しました。
ダラットからサイゴンへの道はもちろんバス。
今回は予てからH氏が楽しみにしていたsleeping BUS。
日本では到底ありえない形のバスではあるがベトナムでは結構よく見る形。
私も大学生の頃にベトナム旅行の際にサイゴンからムイネーまでこのバスを使った。
夜は激しめの電飾が付いてなかなかトリッキー。
その上夜中に雨が降ってあまりの降水量に浸水しそうになってて、とても不安になったのが懐かしい。
バスのベッドは2段になっていて、一見二段めの方が快適そうに見えるかもしれないが、このバスは絶対に1階の席を取った方がいい。と言っても指定できたりできなかったりするので運次第だけど。
2階席は空調が至近距離で当たってくるのでかなりきつい。喉も肌も骨もやられるので注意が必要。
昼寝をしたり本を読んだりしているうちに4時間ほど経ったようで超忙しい街、サイゴンについてしまった。
サイゴンと呼ぶ理由は、昔南北戦争をする前はサイゴンって名前だったんだって!
それで戦争に南部が負けたんだけど、その時に実施された作戦がホーチミン作戦っていう名前だとか。
もともとホーチミンさんっていう革命家が計画したもので、その人のおかげで南北統一されたってことでこのサイゴンはホーチミンに変わったそう。
でも、地元の人はサイゴンって名前が好きらしくてサイゴンって呼んでもらう方が嬉しいらしい。
みんなホーチミンって言われても反応したくないらしいんだよね。
サイゴンへのすごい地元愛。いまでもサイゴンビールはあるけどホーチミンビールはないもんね!
今回も安宿を取るべく、booking.comをチェックしたのだけど、なんと・・・バックパッカー街の事情がわからないからなんとも言えないのだけど、バックパッカー街の安い宿はすべて埋まっていて仕方なくそこから徒歩で30分くらい離れた場所にホテルをとった。
これが私としてはなかなかいい選択だったと感じる。
バックパッカー街って要はどういうことか?って考えると、
よそから来た人たちが集まっていて、多種多様な人種が安宿に泊まっていると言うこと。
もちろんバックパッカー同士の交流も欲しい。
でも足を運んで見て見ると、バックパッカーが集まってるってことは現地の文化じゃない。
バックパッカー街にはたくさんの西欧料理や西欧文化があってその土地の人たちと交わることって難しくなる。
だから今回は不幸中の幸い的な感じかな。
中心地に出るのには本当に苦労したし面倒だったけど、現地の人たちで超いっぱい!席埋まっちゃってる!的なご飯屋さんとかはやっぱりそう言う場所から離れたホテルにして正解だったと思う。
ダラットでの夕食はとても美味しかったのだけど、ベトナムっぽい料理が食べたいと思い少し下調べをしてから街に出た。
今日は地元で人気のバインセオを食べよ~!
と意気込んでホテルを出て見るとここは観光客が少ないエリア。サイゴンの地元の人たちがその辺でご飯を食べてる。
アジアの町の面白いのは夕方16時とか17時くらいからどこからともなくさっきまではなかったお店が出て来て道路を埋め尽くしたりすること。
サイゴンにも昼間はなかったと思われる店が出て来ていた。店は家の中、席は屋外。そんな感じで多くの店が歩道に張り出していた。
鶏鍋の店のようだったが生憎空席はなく諦めた。
さらに歩いて30分。やっと店を見つけた。
が、あいにくの定休日(いや定休じゃないかも)。
仕方なくさらに歩きながら見ているとこれもまた席を歩道沿いにズラッと並べた店が。
日本では歩道に席を出したら問題なのかもしれないけどこちらではあんまり問題にならないのかな。
それに食べ残しとか、ティッシュとか、飲み終わった缶やビンも席の周りに適当に落としてる。
汚いな~と思うけど店の人もそんな感じ。あとでまとめて集めるわ~♪と言う感じで悪びれてるわけでもなかった。
隣に座っているおじさんが声を掛けてきてちょいちょいH氏へタバコを進めてきた。
私は注文したカリフラワーの炒め物を食べながらおじさんの話に耳を傾けていると、どうやらこのおじさんも英語が話せる訳ではないけど好奇心で声を掛けてきたみたい。
ベトナム人はかなりの割合で親日的でフレンドリーな人が多いと感じられた。
そういえばダラットでもニャチャンでもロシア人と中国人はちょっと難しいってベトナム人が言ってたのを聞いた。(笑)
翌日、私たちはベトナムが誇る戦争博物館に向かった。
博物館の入場料は約240円(40,000VDN)。昔は15,000VDNだったらしいけど値上がりした様子。
中に入ると3階から部屋番号が降ってあるので順に進んでいく。
ベトナム戦争といえば、南部がフランス植民地となっていたためこれを解放するために戦争(フランス敗北)し、ベトナムは南北に分断されるも南部は汚職まみれの国となってしまい国民の不満が充満した。
そのため北部が武力によって南部の解放を行おうと言うことで内戦が始まったのだそう。
それを見ていたアメリカのジョンFケネディー大統領はこのまま北部が勝ってしまった暁には東南アジアの国々が次々と共産化してしまう恐れがある→経済政策的にまずい!と言うことで介入してきた、と言う話だそう。
北部の後ろ盾はソ連。
その流れなんかが地図や、イラストなどでわかりやすく説明あった。
ベトナム戦争に使われた金額や爆弾の数、戦争の長さ、死人の数、負傷者の数を太平洋戦争や朝鮮戦争などを例にとってその激しさを説明していた。
例えば太平洋戦争での爆弾の使用量(日本が受けた量)は13万トンだったのに対し、北ベトナムが受けた爆弾は255万トン約20倍の攻撃を受けたと言うことになる。
そしてベトナム戦争博物館のすごいところは写真の豊富さ。
日本の戦争博物館ではここまでひどい写真の数々をここまでの量で見たことがない。
が、この博物館ではそれを隠す事もなく堂々と我々が受けた傷はこんなにひどいんだ!こんなにひどいことをされたんだ!と言う主張が強く表現されていた。
顔に布をかぶせて水攻めをする。ものすごい辛い拷問なんだってね。
少ない食糧の米を全て道にばら撒き家を燃やす。
泣いて辞めてって懇願する女性を無視してあざ笑うかのように燃やしてしまう。
ベトナム戦争では民間人が戦争に参加し、女性であっても戦争に参加していた事もあったために老人・女性・子供全ての人たちが例外なく敵と見なされ、人権を迫害されて攻撃を受けた。
そしてジャングルに身を隠すベトナム人を洗い出すために、ジャングルに枯葉剤を散布し枯らしてしまった。
その枯葉剤が人間に対してももちろん猛毒だったために、たくさんの犠牲者を生んだ。
そしてその影響は今もまだ、先祖代々と受け継がれている。と、そう言う内容があった。
確かに、ホーチミンに来てから体の曲がり方が普通では無い人。いきなり下半身からものすごく細くて折れてしまいそうな足を持つ人。目の位置が左右でかなりの差がある人。などを路上で見かけた。
「ベトちゃん」も「ドクちゃん」もその中の1人。
きっと産む前にお母さんは子供ができたと心底喜んだことだろう。
そしてお腹を痛めて産んだ子どもに不自由がある、しかも戦争のせいでなんてどれだけ辛かっただろう。
私になんかわかるような痛みではないだろうと悲しくなってしまった。
そういった資料を以って遺伝子レベルまでその影響が出ていると言うことを博物館では教えてくれていた。
もちろんそれはベトナム人だけではなく、散布したアメリカ人にも影響があったそう。そのことについてもきちんと掲載されていた。
アメリカや他の国の戦争博物館に行ったことがないからなんとも言えないけれど、悲惨さや自分達がされたことに対してハッキリと「NO!!」と言っていることが理解できたし、悲しみ以上に怒りを感じさせられる展示だった。
戦争はいつ襲って来るのかわからないと思う。
そうなる前に選挙やメディアを通じて自分の意思を提示しておくことはすごく重要なことだと再認識させられた。
「卑劣な行動をするような人間とは思えない者に対しても、愛を持って接することのできる、そういう言葉をかけられる人が増えたら世界はもっと平和になるのじゃないか、と思うんだけどな」とH氏に言ったところ、
「世の中は頭のずる賢い奴が良いようにしてしまう方が圧倒的に多い」と言われた。
確かに・・・。いつか戦争をする日が来ないことを心から祈るくらいしか今はできないかな。
アメリカからの攻撃に耐え抜き戦ったベトナムはすごいな、つい最近まで戦争していたのにここまで持ち直したなんて強い国だと思う。
ホーチミンを散策するのが終わってしまうと私たちはシンガポールへと向かった。